2010年8月31日火曜日

日清戦争と軍事のバランス-崩れ行く伝統的均衡(2)

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、
新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が
危うくもロシアのいうとおりになるのをみると、占領中迫害された
宮廷はロシアの戦力を引き込んで日本に対抗させます。

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これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて
宮廷に乱入して妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという
無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、
この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、
政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。

そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという
不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、
朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めさせる
だけでなく、ロシアが財政問題と軍事教官を送ることも
認めます。

つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに
与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり
生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、
朝鮮の人は怨みがあり、日本人をまったく信用して
いなかったのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも
面縦腹背でどうにでもならなかったわけです。

日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、
それを今となっては同じことで、韓国の人の
対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を
汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が
韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、
それは日本が韓国の近代化を助けることだったと
思います。

韓国の歴史の中で唯一といえる親日はだった金玉均の
独立党も、その目的は、当時近代の旗手であった
日本と組んで近代化をしたいということでした。

現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、
遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に
置く正攻法なのでしょう。

さてこのように朝鮮半島の覇権だけでなく、
遼東半島も三国干渉で手放ししたと思うと、三年後には
ロシアが取ってしまって、日清戦争で日本が満韓で得たものは
全部ロシアに取られてしまうことになります。

2010年8月26日木曜日

日清戦争と軍事のバランス-崩れ行く伝統的均衡(1)

極東の伝統的な均衡が破壊される過程は、マジェランの
世界一周以来数多くの段階があります。

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とくに19世紀になってからは1840年のアヘン戦争、
58年の愛揮条約、60年の北京条約(沿海州割譲)など、
いわゆる西力東斬も急テンポになりますが、
どれか一つだけ決定的なものは、といわれると、
それは日清戦争になります。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の
日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、
それ自体だけであまり意味はない戦争でした。

もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を
獲得しますが、それは戦争の本来の目的では
ありません。

戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の
覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする
国際環境を確保することでした。

しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を
併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで
水を汲んでいるようでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党の
クーデターが成功して親日政権ができると
すぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終わり、
そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは
完全に清国が掌握します。

2010年8月25日水曜日

日本国であることの得失

秀吉の朝鮮出兵の例は、日本から向こうに攻めて行った例なので、
専守防衛のわが防衛戦略の参考とはならないので割愛しますが、
一つだけ指摘したいのは朝鮮出兵の場合でも、白村江の場合でも
共通していえることとして、日本側の戦闘能力過信と、戦略の
驚くべき粗雑さ、というよりも情報と戦略のまったくの欠如です。

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朝鮮の役は、小西行長が何とか秀吉をごまかして適当なところで
話しをつけようとして、それに乗じた謀略にひっかかるのですから、
秀吉ははじめから戦略情報については盲同然で、その点では気の毒と
いえますが、それはそれとして十五万にんの人数を準備しただけで、
あとはただどんどん進んで大明国を征服してしまおうという
以外には戦略がないのですから、無策ともなんとも言いようが
ありません。

天下統一の過程で、あれだけの戦略能力を発揮した秀吉が、
対外政策では一転して無策になる-このことの裏には、単に
秀吉の頭脳が老化したのではないか、ということ以上に、
もっと深い日本人の「外国なれのしない」特性があるのでしょう。

日本勢は現地ではその場に応じて、秀れた攻城野戦の能力を
発揮するのですが、戦争全体のやり方は、戦闘能力重視、
情報と戦略軽視の最たるものです。

当時明国のスパイが明の朝廷に送った報告に、日本人は勇猛果敢だが
何ごとによらず計画性がない、と書かれたのもやむをえないような
状況です。

白村江出兵の理由も歴史の資料によれば、「昔から助けを乞われれば
助けにいくのは当然である」というだけで、大唐帝国と連合軍を
相手にするにしては単純なものです。

戦場でも、状況を考えずに「わが方が先を争って攻めていけば、
敵はおのずから逃げるだろう」という戦術で唐軍にぶつかって
いきます。

それで負けるのは仕方がないとしても、その後もちっとも
国政情勢に即応した措置をとっていません。

敗戦後西国の守りを固めたのは当然ですが、新羅の戦争が起っても、
これを利用するチャンスですが、高句麗を滅ぼすが早いか新羅が
外交的先手を打って莫大なお土産をもって日本に入貢してみせると、
すっかり機嫌がよくなって、それっきり半島政策は放棄します。

結果としてみせれば、新羅と唐を戦わして日本は一息つき、
新羅、唐の両方と親密な関係を保ちえたのですから外交上
いちばんよい選択だったといえますが、どうしても
そこまでわかってやったとはとうてい考えられません。

というのは、その後新羅が唐羅戦争を勝ち抜き、大同江以南の
国境確定という玄宋皇帝の刺をもらってもう日本の機嫌を
とる必要もないので日本との関係を疎略にしだすと、
今後は日本側が怒って出兵の準備をします。

この出兵は総動員をするまでで沙汰やみとなりますが、
あのときに出兵していれば、唐と新羅の関係は蜜月とも
いえる状態でしたし、安緑の乱も終わっていますから、
また手痛い目に遇うばかりか唐との関係も台なしになることも
目にみえています。

力関係が我が方に有利なときは先方が下手に出るのでコロコロ喜んで、
出兵しない。

力関係が逆転して先方が高姿勢に転ずると今度は怒って攻めようとする、
これでは情勢判断も戦略もない、驚くべき単純思考です。

よくこれで千二百年間やってこられたと思います。

国際環境のきびしい国ではとても考えられないことです。

いまでも、日本周辺の客観的軍事バランス無関係に、むしと
国内事情を中心に日本の戦略を構築しようという発想が
しばしば出てくることの背後にはこういう歴史的伝統が
あるのでしょう。

一般的に日本の旧軍の欠点として、アングロ・サクソン風の
情報重視戦略でなく、プロイセン型の任務遂行型戦略を
採用したことが指摘されています。

つまり勝てそうかどうかの見極めをつけてから戦闘を行うのではなく、
与えられた兵力で与えられた任務をいかに遂行するかを考えると
いうことです。

ここでは詳しい例を挙げるいともありませんが、太平洋戦争では、
彼我の戦闘力、補給能力の差を無視して、幾万の有能な戦士が
任務遂行のために無謀な戦闘に従事して白骨と化しています。

しかし、こう見てくると、客観情勢の無視は、「清水の舞台から
飛び降りた」太平洋戦争の開始それ自体の考え方の中に
存在するのであって、単に明治以来のプロイセンの影響だけでなく、
おそらくは島国という恵まれた環境に育った日本民族の、
世界にも稀な経験の乏しさ、そこからくる初心さが、外部の
情報に対する無関心と大きな意味での戦略的思考の欠如を
生んできたといえましょう。

参照サイトリンク
戦後世界経済

2010年8月22日日曜日

韓民族の抵抗(8)

宋、契丹、明、清の時代に大陸中心部の勢力は一度も半島南部に
及んでいません。

元寇のときと状態が最も近いところまでいったのは
朝鮮戦争のときで、李承晩政府は、元寇のときの
高羅政府と同じように敵との力の差がありすぎては
かばかしい抵抗もできず、南部の海岸の西半分まで
北朝鮮軍に制圧されるが、その後は国連軍が釜山の
橋頭をよくもちこたえて反撃に転じました。

これだけからも、大陸に膨張主義的な大国-あるいは
外征を不徳とするような特殊な道徳をもたない
普通の大国-が出現して、朝鮮半島南部の抵抗が
崩壊して、大国の勢力が南部まで及んだ場合は、
極東の均衡の条件が崩れて日本に危機が迫るという、
考えてみればあたりまえすぎるようなことが、
日本の戦略的環境にとって真理として残ることに
帰結します。

後に述べるとおり、日露戦争の前に、巨大ロシアを
相手に日本が本当に戦争するかどうかの判断は、
一にかかって、そのままでは半島南部ままでは
半島南部までロシアが進行してくるかどうかの
見通しだけでした。

この地理的条件が、沖縄返還のときの
佐藤・ニクソン共同声明における
「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」
という思想にもつながって現在に至るわけです。

もちろん、半島南部を取られたからといって、
それが日本の破滅ということではなく、
そこから日本の正念場が始まるわけです。

現に大陸の力が圧倒的に強くて抗し難いというときは
半島南部のバッファーがなくなるという状態が
現出していますが、そういう場合は、白村江の後とか、
元寇のときのように、西日本は要塞化し、全国的に
動員態勢をとる必要が生じています。

自衛隊の前身の警察予備軍の発足も、
朝鮮戦争勃発二週間後のマッカッサーの
指令によるものです。

結局は今も昔も同じことで、半島南部の
海空軍基地が非友好的勢力の手に陥ちた場合を
考えると、日本が追加的に必要となる
防空能力、制海能力、揚陸阻止能力、ひいては日本の
防衛体制全般は、現在のものと質量共に
抜本的に異なるものとならざるを得ないでしょう。

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2010年8月19日木曜日

韓民族の抵抗(7)

さて、このような日本をとりまく戦略的均衡状態が
崩れるのは白村江後、近代までの千二百年のあいだで、
元寇前年の十年間と秀吉の朝鮮出兵の十年間だけです。

元寇においては日本をとりまく均衡の条件の
中で少なくとも二つが破れています。

一つは千二百年の歴史の中でこのときだけは
大国の自制がはたらいていなかったことで、
これはいうまでもありません。

もうひとつは朝鮮半島がバッファーの役割を
果たせなかったことです。

実は極東の歴史で、中国大陸の勢力が朝鮮半島南端にまで
及んだのは前にも後にもこのとき一度だけです。

白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、
対馬、壱岐、筑紫に防人と峰火を置き、
各地に城を築きます。

しかし半島南部の百済を滅ぼした唐軍は北進して
高句麗に向かい、これが滅びると、百済の故地の
処分問題などをめぐって唐と新羅の戦争が
始まって、新羅はちょうどいまの休戦ラインの
北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には
唐の勢力の侵攻を許しません。

すでに述べたとおり、唐帝国もはじめは普通の
膨張主義の帝国でしたから、もし唐が新羅を
征服したならば次は日本だったことは十分想定
されます。

現に白村江の後で唐が魏を討つために兵船の修理を
したという記録もあるそうです。

唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の
幸運だったといえるでしょう。

2010年8月18日水曜日

韓民族の抵抗(6)

歴史の表面にあらわれない場面でも、
韓民族が日本の潜在的危機を救った
ケースはあります。

もし高句麗が崩壊して朝鮮半島全土を
隋が制圧していたらどうなっていたでしょうか。

聖徳太子が
「日の出る処天使、日没する処の天使に書を致す。無無きや」
といっていたのに対し(王芸生は、これを日本が中国に
逆らって「抗礼の挙に出たはじめ」と書いています)

「蛮族の書なきものあり」
と怒った怒った隋に対する戦勝の後にあえて臣礼を
とって入貢して平和を保ったほどのきびしい東アジアの
戦略環境で、日本のナイーブさは危険極まりないものでした。

契丹に対する高麗の抵抗にも同じことがいえます。

契丹は豪古にも劣らない膨張主義国家ですから、
朝鮮半島が完全に征服されていれば元寇と
同じことになっていた可能性もあります。

刀伊の入寇のあいだにどこまで連繋があるのかは
わかりませんが、同じ年に九州に侵入していることからも、

そのころ東北アジアの民族活動が活発化していて
情勢によっては危機をはらむ状況にあり、
それが高麗の抵抗で救われたということもいえます。

【精神分析入門】

2010年8月17日火曜日

韓民族の抵抗(5)

他方、バックス・シニカの一部分にならざるを得ない
地理的環境にある国としては、対外征服などとても
考えられない国際政治上の条件下にある。

高句麗が隋軍を撃滅して得た代償は
隋に入貢を許されることでしたし、
新羅が唐羅戦争を勝ち抜いた代償も
同じです。

元の大軍を追い返したベトナムの代償も
同じことでした。

勝って中国に進撃しても四百余州を制するわけには
いかず、いずれは息切れして負けるのですから、
早く和平を結んで安定した国家関係を
作ることが大事。

負ければ民族の滅亡、勝っても宋主国に対する
藩属関係というきびしい条件ですから、
外への発展などとうてい考えられません。

フィンランドの救国の英雄マンネルハイム元帥が、
ソ蓮戦争末期に
「休戦は至上命令だ。
フィンランド国軍が崩壊したら休戦はありえない」
と言ったのも同じことです。

負ければ自由なフィンランドは滅亡、英雄的な
抵抗でやっと勝ちえたものが、いわゆる
フィンランドダイゼーションのような
かたちが生まれるのですから。

というわけで、対外侵略の意図も能力もなく、
他面北からの脅威には敢然と抵抗する
意思のある国が大陸本土と日本とのあいだに
介在している-これほど日本の安全にとって
ありがたい条件はないといえましょう。

2010年8月15日日曜日

韓民族の抵抗(4)

ところが、防戦となるとこれまた驚くべき能力を発揮します。

さきの高麗の乙支文徳が隋軍を破った勝利と並び
称されるのは1018年がら19年にかけての契丹軍の
十万の入寇を迎え撃ち、牛の皮で川をせき止めて
一挙に切って落とすという奇策を用いて、生還者僅かに
数千人といわれる勝利である。

いずれも、日本の歴史でいえば、日本海海戦に比すべき
意義のある大勝利として韓民族の心に深く残っている。

また唐軍を迎えての七年間の唐羅戦争を戦い抜いて
ついに唐に勝ちを許さなかった新羅の勇戦ぶりも
また立派なものだ。

どうしてそういうことなのか、やはり東夷諸国の中では
早くから民族国家としての体をなし、文化の程度も
高かったから侵入軍に対して組織的な抵抗ができたのも
当然だが、韓民族の特性として三・一宣言を起草した
大学者催南善の論文等でよくいわれていることだが、
民族の純粋性に対する信仰、裏からいえば他民族に対する
排他的には独特のものがある。

一つは言語のちがいもある。

漢民族の南方の種族はタイに至るまで、漢字音のある
同系統の言語なので中国に同化されやすいのだが、
韓国語は日本語と同じようなのっぺらぼうな発音の
言葉でとても中国語になじまない。

漢民族としてもこういう種族は漢北におい払うか、
高句麗の末路のように住民を中国各地に強制移住させて
民族として抹殺するしかなく、そうでなければ
朝貢宗関係が一番よいかたちかもしれない。

2010年8月14日土曜日

韓民族の抵抗(3)

韓国族というのはいろいろと不思議な民族だ。

まずは驚くべき内向的な民族で、
歴史上膨張政策をとったことが一度もない。

新羅は建国以来5世紀までに二十数回も委人に
攻められたと記しているが、新羅が日本攻撃を
企図した記録は皆無だ。

また元寇が失敗して以来逆に委寇は著しく、
高麗朝滅亡の一因となったといわれるくらいですが、
これに対しても防戦一方で、対馬攻撃が実施されたのは
1419年ただ一回のようだ。

国家主義者朴が「わが五千年の歴史は一言でいって沈黙の
歴史である。
いつの時代に辺境を越えて他を支配したことがあろうか・・・
こんな歴史は燃やしてしまえ」
と嘆いているのにもよくあらわれている。