ついでに唐の太宗の高麗成征伐について
十八史略は、「この外征では、十城を陥し、
七万の人口を唐に移し、三つの大合戦で
四万以上の首を切った。
しかし味方は三千人の兵を失い、
戦馬は十に七八は死に、それでも
目的は達せられなかった。
太宗は深く後悔して、もし魏徴が生きて
いたらこのようなことはさせなかっただろう」
といって、先にうとんじられた唐の
名臣魏徴の名誉回復をする。
唐の太宗といえば、中国の歴史の皇帝の中でも
最高の歴史的評価を与えられている名君だ。
十八史略も、その業績と人となりに
賛辞をかさねている。
ちょうど日本と大陸との本格的な対外関係が
始まるころから、外征を不徳とする
考え方が中国に確立する-これもまた
日本にとってはきわめて運のよい
話だ。
戦略について掲載しています。日本の過去の戦争を例に挙げた戦略。国内事情を例に挙げた戦略。歴史への深い素養と豊かなコモンセンスに裏付けられた戦略。ビジネスに役立つ戦略を具体的に掲載します。
2010年7月26日月曜日
韓民族の抵抗(1)
外征を不徳とする中国の思想が確立するのは、
実は、日本が統一国家として歴史に登場する
隋唐のころからなのだが、この思想が確立する
主たる原因は韓民族の抵抗にあったからといっても
言いすぎではない。
十八史略のそのころの記述を読むと
その間の事情がよくわかる。
隋の楊帝については、
「大業七年、帝みずから将となって天下の兵を
徴して高麗を撃った。・・・人夫が数十万で
昼夜絶えず米を廻し、死人が枕を並べるようになり、
民衆は困窮して、ここではじめて郡盗をなすようになった」
とあり、あとは、十八史略独得のテンポで、急坂を
転がり落ちるように隋王朝の没落を描いている。
この時の高句麗の戦いぶりは見事なものだ。
将軍乙支文徳は戦っては偽って逃げ、
隋軍を平壌城のそばまで深く誘いこみ、
平壌城が堅固で攻めあぐねた隋軍が
引き上げて清川江を半ば渡ったところを
痛撃して、三十万五千の遠征軍のうち、
帰ったのは僅かに二千七百人という
大勝利をおさめる。
実は、日本が統一国家として歴史に登場する
隋唐のころからなのだが、この思想が確立する
主たる原因は韓民族の抵抗にあったからといっても
言いすぎではない。
十八史略のそのころの記述を読むと
その間の事情がよくわかる。
隋の楊帝については、
「大業七年、帝みずから将となって天下の兵を
徴して高麗を撃った。・・・人夫が数十万で
昼夜絶えず米を廻し、死人が枕を並べるようになり、
民衆は困窮して、ここではじめて郡盗をなすようになった」
とあり、あとは、十八史略独得のテンポで、急坂を
転がり落ちるように隋王朝の没落を描いている。
この時の高句麗の戦いぶりは見事なものだ。
将軍乙支文徳は戦っては偽って逃げ、
隋軍を平壌城のそばまで深く誘いこみ、
平壌城が堅固で攻めあぐねた隋軍が
引き上げて清川江を半ば渡ったところを
痛撃して、三十万五千の遠征軍のうち、
帰ったのは僅かに二千七百人という
大勝利をおさめる。
2010年7月10日土曜日
バックス・シニカ(5)
もともと漢民族は黄河中流に最初に本拠を構えて、
そこから東西南北の異民族を征服吸収して、
自らの版図に加えて膨張してきた。
古代シナの膨張が一つの絶対期を迎えるのは
漢帝国の時代で、漢の武将は漠北を裁ち、
嶺南を平定して、ほぼ現在の漢民族の
住んでいる地域を征服した。
朝鮮半島についても、北半分を征服して、
朝貢国としないで、郡県を置いて直接支配した。
歴史の前例というのはおそろおしいもので、
唐の太宗の朝鮮介入も、漢の郡県復活の
ためというし、明治15年の壬午の変後、
日本攻略を主張するが、同時に漢の例にならって、
朝鮮の国を廃して郡県とすることを説いた。
つまり漢の時代の中国は歴史上どこでも
ある征服王朝の一つで、朝鮮半島南部や
日本が征服されなかったのは、
地理的にあまりにも遠かったというだけの
理由でしょう。
そこから東西南北の異民族を征服吸収して、
自らの版図に加えて膨張してきた。
古代シナの膨張が一つの絶対期を迎えるのは
漢帝国の時代で、漢の武将は漠北を裁ち、
嶺南を平定して、ほぼ現在の漢民族の
住んでいる地域を征服した。
朝鮮半島についても、北半分を征服して、
朝貢国としないで、郡県を置いて直接支配した。
歴史の前例というのはおそろおしいもので、
唐の太宗の朝鮮介入も、漢の郡県復活の
ためというし、明治15年の壬午の変後、
日本攻略を主張するが、同時に漢の例にならって、
朝鮮の国を廃して郡県とすることを説いた。
つまり漢の時代の中国は歴史上どこでも
ある征服王朝の一つで、朝鮮半島南部や
日本が征服されなかったのは、
地理的にあまりにも遠かったというだけの
理由でしょう。
2010年7月9日金曜日
バックス・シニカ(4)
国際平和はバランス・オブ・パワーで維持される
というのは近代の国際政治思想の一つの固定観念
ですが、私は、これが現在の国際情勢に
あてはまるかどうか従前から疑問をもっている。
たしかに、バランス・オブ・パワーで平和が
維持された時期というのはあるのだが、
それは19世紀のヨーロッパ、ルネッサンスの
イタリア、春秋戦国の中国のように
同じような力の国がいくつかあって、
その間の合従連衡が可能なときだけで、
それでも、そのつど数十年の
平和が維持されただけだ。
本当に平和は、バックス・ロマーナのように
圧倒的な力の差があるときだけ存在するようで、
戦後のバックス・アメリカーナも同じことだったと
思います。
ところで、この大国の自制は、漢民族の歴史に
おいてつねにそうであったわけではない。
というのは近代の国際政治思想の一つの固定観念
ですが、私は、これが現在の国際情勢に
あてはまるかどうか従前から疑問をもっている。
たしかに、バランス・オブ・パワーで平和が
維持された時期というのはあるのだが、
それは19世紀のヨーロッパ、ルネッサンスの
イタリア、春秋戦国の中国のように
同じような力の国がいくつかあって、
その間の合従連衡が可能なときだけで、
それでも、そのつど数十年の
平和が維持されただけだ。
本当に平和は、バックス・ロマーナのように
圧倒的な力の差があるときだけ存在するようで、
戦後のバックス・アメリカーナも同じことだったと
思います。
ところで、この大国の自制は、漢民族の歴史に
おいてつねにそうであったわけではない。
2010年7月8日木曜日
バックス・シニカ(3)
もっとも、こんなことをいって、まわりの領土を
どんどん取られてしまった清国はバックス・シニカの
最後の段階ではこれに気付く。
1885年アフガニスタンをめぐる英露の衝突の
後に英国はウラジオストックのロシア艦隊を
封じ込めようとして、朝鮮半島南部の
租借を申し込む。
朝鮮政府から相談を受け「その島は荒島と聞く。
貴国は惜しむに足らないと思うかもしれないが、
香港も昔は漁師の小屋がいくつもあるか
だけだったが、いまや毅然として重鎮となり
南海の咽喉を成している」と述べ、
うっかり貸したりするとロシアも日本も
同じようなことを言ってくるぞと忠告して
断らせる。
その判断はきわめて正しいのだが、
それならもっと早く中国自身が気付く
べきだっただろう。
ともあれ大国が圧倒的な力をもち、
かつ、自制することを知っている
-それならば安定した平和が維持されることは
自明の理だ。
どんどん取られてしまった清国はバックス・シニカの
最後の段階ではこれに気付く。
1885年アフガニスタンをめぐる英露の衝突の
後に英国はウラジオストックのロシア艦隊を
封じ込めようとして、朝鮮半島南部の
租借を申し込む。
朝鮮政府から相談を受け「その島は荒島と聞く。
貴国は惜しむに足らないと思うかもしれないが、
香港も昔は漁師の小屋がいくつもあるか
だけだったが、いまや毅然として重鎮となり
南海の咽喉を成している」と述べ、
うっかり貸したりするとロシアも日本も
同じようなことを言ってくるぞと忠告して
断らせる。
その判断はきわめて正しいのだが、
それならもっと早く中国自身が気付く
べきだっただろう。
ともあれ大国が圧倒的な力をもち、
かつ、自制することを知っている
-それならば安定した平和が維持されることは
自明の理だ。
2010年7月7日水曜日
バックス・シニカ(2)
第二は、中国特有の宗主藩属関係で、これは一言でいうほど
簡単なことではないので深入りはしないが、
一般的にいって中国の脅威とならないかぎりあえて
征服しよとしないという傾向があるといえる。
日本の場合はごく短期間を除いては宗主権が及んだと
いえる時期はないが、中国が外征を好まない傾向を
もつ恩恵は受けている。
「小国の区々たる貢を争い、虚名を求めて遠征を
事とする」というのは、日本が明治の初め
琉球王に対清朝貢を禁止し、琉球王は
泣いて清朝の援け求め、駐日清国公使も
「琉球を取らせれば次は日本は朝鮮を取りにくる。
いまは日本が西南戦争のあとで疲弊しているから、
清国が干渉すれば成功する」
このときでも日清の話し合いがつかず清国が
実力を使えば日清間に兵が動いたわけだが、
この清国の自制で琉球問題は日本が既成事実を
つくったままで収まる。
これが
バックス・シニカの構造の一つの例といえる。
簡単なことではないので深入りはしないが、
一般的にいって中国の脅威とならないかぎりあえて
征服しよとしないという傾向があるといえる。
日本の場合はごく短期間を除いては宗主権が及んだと
いえる時期はないが、中国が外征を好まない傾向を
もつ恩恵は受けている。
「小国の区々たる貢を争い、虚名を求めて遠征を
事とする」というのは、日本が明治の初め
琉球王に対清朝貢を禁止し、琉球王は
泣いて清朝の援け求め、駐日清国公使も
「琉球を取らせれば次は日本は朝鮮を取りにくる。
いまは日本が西南戦争のあとで疲弊しているから、
清国が干渉すれば成功する」
このときでも日清の話し合いがつかず清国が
実力を使えば日清間に兵が動いたわけだが、
この清国の自制で琉球問題は日本が既成事実を
つくったままで収まる。
これが
バックス・シニカの構造の一つの例といえる。
2010年7月6日火曜日
バックス・シニカ(1)
さて、近代まで日本の周辺にこれだけの安定をもたらしたのは、
単に地理的環境だけではなく、中華帝国を中心とする
東アジアの国際秩序であったといえる。
バックス・シニカという言葉
(シナ・の優越で平和が保たれている状態)は
あまり使われないが、これが有効にはたらいて
日本や朝鮮半島の平和が維持された期間は、
バックス・ロマーやバックス・ブリタニカが
有効だった期間よりはるかに長く、
かつ安定したものだったといえる。
バックス・シニカの第一の条件は中国の圧倒的優越だ。
国土人口の大きさ、歴史の長さからくる
文化水準、政治力、経済力、軍事力は
周辺諸国の比肩を許さない。
中国の優越は議論を許さないところであり、
これを知らなかっただけで、漢に併合された
夜郎国のように、後世まで「夜郎自大」といわれて
無知と思い上がりの手本として歴史に名を
留めることになる。
単に地理的環境だけではなく、中華帝国を中心とする
東アジアの国際秩序であったといえる。
バックス・シニカという言葉
(シナ・の優越で平和が保たれている状態)は
あまり使われないが、これが有効にはたらいて
日本や朝鮮半島の平和が維持された期間は、
バックス・ロマーやバックス・ブリタニカが
有効だった期間よりはるかに長く、
かつ安定したものだったといえる。
バックス・シニカの第一の条件は中国の圧倒的優越だ。
国土人口の大きさ、歴史の長さからくる
文化水準、政治力、経済力、軍事力は
周辺諸国の比肩を許さない。
中国の優越は議論を許さないところであり、
これを知らなかっただけで、漢に併合された
夜郎国のように、後世まで「夜郎自大」といわれて
無知と思い上がりの手本として歴史に名を
留めることになる。
2010年7月5日月曜日
二つの民族の歴史経緯の差(5)
幕末に筒井肥前守などが対露政策を論ずるように
命ぜられて書いた文書には、ロシアが樺太まで
入ってきたような自体について
「かかる例は御国にはこれ無く候。
余の儀なく唐土の例を以って勘弁仕り候ところ」
として、漢も唐も強くなってからこれを
征服したという例を挙げ、ここは、日本の力がつくまでは
和親しかないと論じている。
この程度の歴史論でも
「わが皇国は外国の侮りを受けていない」
云々などという日本中心の天動説の攘夷論に
まさること万々だ。
我々は戦略論を考えようとしているのだが、
戦略論とは、すなわち歴史の研究、解釈であると
断言しても、かなり正統派の考え方として通用する。
「アレキサンダーからフレデリックに至る偉大な指導者の
作戦を何度も繰り返し読め」といったのはナポレオンだった。
孫子やクラウゼビッツは歴史的体験を抽象化して
まとめ上げているが、クラウゼビッツとなると、
もう、ドイツ観念論で整理しすぎて、種々の点について、
後世の戦略家達から、「そうも割り切れないのではないか?」
という疑念が表明されている。
命ぜられて書いた文書には、ロシアが樺太まで
入ってきたような自体について
「かかる例は御国にはこれ無く候。
余の儀なく唐土の例を以って勘弁仕り候ところ」
として、漢も唐も強くなってからこれを
征服したという例を挙げ、ここは、日本の力がつくまでは
和親しかないと論じている。
この程度の歴史論でも
「わが皇国は外国の侮りを受けていない」
云々などという日本中心の天動説の攘夷論に
まさること万々だ。
我々は戦略論を考えようとしているのだが、
戦略論とは、すなわち歴史の研究、解釈であると
断言しても、かなり正統派の考え方として通用する。
「アレキサンダーからフレデリックに至る偉大な指導者の
作戦を何度も繰り返し読め」といったのはナポレオンだった。
孫子やクラウゼビッツは歴史的体験を抽象化して
まとめ上げているが、クラウゼビッツとなると、
もう、ドイツ観念論で整理しすぎて、種々の点について、
後世の戦略家達から、「そうも割り切れないのではないか?」
という疑念が表明されている。
2010年7月4日日曜日
二つの民族の歴史経緯の差(5)
ニューヨークのジャパン・ソーサイティーの
75周年記念のシンポジウムで、米国の学者が
防衛問題を論じて「米国はそれほどブアルネラブルでは
ないのにインセキュリティーであり、日本は
ブアルネラブルなのにインセキュリティーがない。
これはどうしたことだ」と言っていたが、
まさに核心をついた発言と思った。
はじめに紹介した日本のインテリの議論も、
ソ連の脅威の客観的な評価を日本の
できることに合わせようという意味では
無理なのだが「日本人は米国と同じようには
ソ連の脅威を感じていない」
という感覚的な発言
-こういう感覚的な発言で開き直れるものか
どうかの問題は別にして-
としては正確だともいえる。
日本民族というのは世界でもよくよく経験不足の
国民だ。
個人でも国家も同じことで、経験によって賢く
なるのだが、中国人どころか韓国人まで
「日本人は若い」と見下している事実は
自戒すべきだ。
といっても経験がないものは仕方がないので、
歴史から学ぶほかはない。
ツキというものはいつまで続くか保障はないし、
日本が自分の歴史で経験したことだけが
将来起きるとはかぎらないから、古今東西の
歴史を参考にする要がある。
75周年記念のシンポジウムで、米国の学者が
防衛問題を論じて「米国はそれほどブアルネラブルでは
ないのにインセキュリティーであり、日本は
ブアルネラブルなのにインセキュリティーがない。
これはどうしたことだ」と言っていたが、
まさに核心をついた発言と思った。
はじめに紹介した日本のインテリの議論も、
ソ連の脅威の客観的な評価を日本の
できることに合わせようという意味では
無理なのだが「日本人は米国と同じようには
ソ連の脅威を感じていない」
という感覚的な発言
-こういう感覚的な発言で開き直れるものか
どうかの問題は別にして-
としては正確だともいえる。
日本民族というのは世界でもよくよく経験不足の
国民だ。
個人でも国家も同じことで、経験によって賢く
なるのだが、中国人どころか韓国人まで
「日本人は若い」と見下している事実は
自戒すべきだ。
といっても経験がないものは仕方がないので、
歴史から学ぶほかはない。
ツキというものはいつまで続くか保障はないし、
日本が自分の歴史で経験したことだけが
将来起きるとはかぎらないから、古今東西の
歴史を参考にする要がある。
2010年7月3日土曜日
二つの民族の歴史経緯の差(4)
ツキに自信のある個人とそうでない人もあるように、
国民性でもちがいはある。
韓国の高度成長は70年代初めから始まって、
73年には10月までの実績でGNPが前年度比
実質20%の増、インフレは3%以下という
驚異的な数字だったが、そこへ10月の
中東戦争と石油ショックがきた。
そのとき韓国の経済官僚が天を仰いで、
「韓国はよくよく天に見放された民族だ。
高度成長が始まったとたんにもうこれだ」
と言ったのを印象深く覚えている。
いつかは神風が吹くと思っている民族とは
大きな違いです。
いまでも日本人が国際環境のきびしさを
言葉ではわかっていても、実感としては
感じられず「どうにかなるんじゃない?」と
思っている根底にはこの楽観主義がある。
国民性でもちがいはある。
韓国の高度成長は70年代初めから始まって、
73年には10月までの実績でGNPが前年度比
実質20%の増、インフレは3%以下という
驚異的な数字だったが、そこへ10月の
中東戦争と石油ショックがきた。
そのとき韓国の経済官僚が天を仰いで、
「韓国はよくよく天に見放された民族だ。
高度成長が始まったとたんにもうこれだ」
と言ったのを印象深く覚えている。
いつかは神風が吹くと思っている民族とは
大きな違いです。
いまでも日本人が国際環境のきびしさを
言葉ではわかっていても、実感としては
感じられず「どうにかなるんじゃない?」と
思っている根底にはこの楽観主義がある。
2010年7月2日金曜日
二つの民族の歴史経緯の差(3)
防衛論争の過程で私はいろいろな方から書簡をいただいたが、
それを見てもソ連の脅威に一番深い危惧を抱くのは、
敗戦時満州でソ連軍の占領を経験した人々だ。
しかし日本人の圧倒的多数はアメリカの占領しか
経験していないので、どうしても降伏とか占領に
対するイメージが甘くなる
「経験から学ぶのは愚か者のすることで、余は歴史から学ぶ」
と言ったのはビスマルクだが歴史どころか、同時代の
同国民の経験から学ぶことさえ難しいのが現実だ。
元寇のときも壱岐・対馬の人々は捉えられ、
女性が掌に穴をあけられて船ばたに吊るされたという
記録も残り「むごい」という言葉は「豪古い」からきたと
いうが、それも満州の経験と同じように、
全国民的経験とはならなかった。
もっとも朝鮮戦争で米韓軍が釜山の橋頭保に
追い詰められても、東京の人は何も感じなかったのに、
北九州や山口県では危機感が高かったそうで、
これは元寇の記憶だという人もいる。
戦争の記憶というものは何世紀も残るものだから
本当にそうかもしれない。
また、侵攻軍が台風で全滅するということは
確率からいってそう大きいものではないはずだが、
歴史上たった二度の本格的侵攻で二度とも
そうなったということになると、日本人が
ツキに自信をもつのも無理のないことだ。
それを見てもソ連の脅威に一番深い危惧を抱くのは、
敗戦時満州でソ連軍の占領を経験した人々だ。
しかし日本人の圧倒的多数はアメリカの占領しか
経験していないので、どうしても降伏とか占領に
対するイメージが甘くなる
「経験から学ぶのは愚か者のすることで、余は歴史から学ぶ」
と言ったのはビスマルクだが歴史どころか、同時代の
同国民の経験から学ぶことさえ難しいのが現実だ。
元寇のときも壱岐・対馬の人々は捉えられ、
女性が掌に穴をあけられて船ばたに吊るされたという
記録も残り「むごい」という言葉は「豪古い」からきたと
いうが、それも満州の経験と同じように、
全国民的経験とはならなかった。
もっとも朝鮮戦争で米韓軍が釜山の橋頭保に
追い詰められても、東京の人は何も感じなかったのに、
北九州や山口県では危機感が高かったそうで、
これは元寇の記憶だという人もいる。
戦争の記憶というものは何世紀も残るものだから
本当にそうかもしれない。
また、侵攻軍が台風で全滅するということは
確率からいってそう大きいものではないはずだが、
歴史上たった二度の本格的侵攻で二度とも
そうなったということになると、日本人が
ツキに自信をもつのも無理のないことだ。
2010年7月1日木曜日
二つの民族の歴史経緯の差(2)
高麗朝の政府は江華島に立て篭もり、舟戦を知らない
豪古勢は30年も攻めあぐねるが、江華島以外の朝鮮半島は
豪古兵の暴行略奪の対象となり、この30年間の高麗の
人民の惨苦は言語に絶するものがあった。
1252年の来寇のときの記録を見るだけでも
「豪古の虜にする所、男女無慮二十万六千余人、
射殺せらしめし者あえて計うべからず。
経る所の州郡皆猥儘となる」とある。
ある韓国の人は、このときの例をひいて、
「日本人は何のかのといってもお国の世話になった記憶があるが
韓国人にはそれがない。
このときも人民は見捨てられていた。
したがって国民の国家観もおのずから異なってくる。
それぞれの国民は歴史も、伝統も、
したがって国民性も異なる。
異なるとということと善悪は別の問題なのだが、
日本人はこれを混同する悪い癖がある」
と言っていた。
この朝鮮半島の人々が受けた惨苦に較べて、
日本が一度も異民族の支配を受けたことがなかったという
事実は、国際政治のきびしさに対する
日本人の考え方の甘さや楽天主義の元になっている。
豪古勢は30年も攻めあぐねるが、江華島以外の朝鮮半島は
豪古兵の暴行略奪の対象となり、この30年間の高麗の
人民の惨苦は言語に絶するものがあった。
1252年の来寇のときの記録を見るだけでも
「豪古の虜にする所、男女無慮二十万六千余人、
射殺せらしめし者あえて計うべからず。
経る所の州郡皆猥儘となる」とある。
ある韓国の人は、このときの例をひいて、
「日本人は何のかのといってもお国の世話になった記憶があるが
韓国人にはそれがない。
このときも人民は見捨てられていた。
したがって国民の国家観もおのずから異なってくる。
それぞれの国民は歴史も、伝統も、
したがって国民性も異なる。
異なるとということと善悪は別の問題なのだが、
日本人はこれを混同する悪い癖がある」
と言っていた。
この朝鮮半島の人々が受けた惨苦に較べて、
日本が一度も異民族の支配を受けたことがなかったという
事実は、国際政治のきびしさに対する
日本人の考え方の甘さや楽天主義の元になっている。
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