2010年8月19日木曜日

韓民族の抵抗(7)

さて、このような日本をとりまく戦略的均衡状態が
崩れるのは白村江後、近代までの千二百年のあいだで、
元寇前年の十年間と秀吉の朝鮮出兵の十年間だけです。

元寇においては日本をとりまく均衡の条件の
中で少なくとも二つが破れています。

一つは千二百年の歴史の中でこのときだけは
大国の自制がはたらいていなかったことで、
これはいうまでもありません。

もうひとつは朝鮮半島がバッファーの役割を
果たせなかったことです。

実は極東の歴史で、中国大陸の勢力が朝鮮半島南端にまで
及んだのは前にも後にもこのとき一度だけです。

白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、
対馬、壱岐、筑紫に防人と峰火を置き、
各地に城を築きます。

しかし半島南部の百済を滅ぼした唐軍は北進して
高句麗に向かい、これが滅びると、百済の故地の
処分問題などをめぐって唐と新羅の戦争が
始まって、新羅はちょうどいまの休戦ラインの
北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には
唐の勢力の侵攻を許しません。

すでに述べたとおり、唐帝国もはじめは普通の
膨張主義の帝国でしたから、もし唐が新羅を
征服したならば次は日本だったことは十分想定
されます。

現に白村江の後で唐が魏を討つために兵船の修理を
したという記録もあるそうです。

唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の
幸運だったといえるでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿