さて、このような日本をとりまく戦略的均衡状態が
崩れるのは白村江後、近代までの千二百年のあいだで、
元寇前年の十年間と秀吉の朝鮮出兵の十年間だけです。
元寇においては日本をとりまく均衡の条件の
中で少なくとも二つが破れています。
一つは千二百年の歴史の中でこのときだけは
大国の自制がはたらいていなかったことで、
これはいうまでもありません。
もうひとつは朝鮮半島がバッファーの役割を
果たせなかったことです。
実は極東の歴史で、中国大陸の勢力が朝鮮半島南端にまで
及んだのは前にも後にもこのとき一度だけです。
白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、
対馬、壱岐、筑紫に防人と峰火を置き、
各地に城を築きます。
しかし半島南部の百済を滅ぼした唐軍は北進して
高句麗に向かい、これが滅びると、百済の故地の
処分問題などをめぐって唐と新羅の戦争が
始まって、新羅はちょうどいまの休戦ラインの
北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には
唐の勢力の侵攻を許しません。
すでに述べたとおり、唐帝国もはじめは普通の
膨張主義の帝国でしたから、もし唐が新羅を
征服したならば次は日本だったことは十分想定
されます。
現に白村江の後で唐が魏を討つために兵船の修理を
したという記録もあるそうです。
唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の
幸運だったといえるでしょう。
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