2010年9月7日火曜日

日清戦争と軍事のバランス-陸奥宗光の情勢判断(2)

人類の歴史ははそう簡単に本質が変わるものでもないでしょう。

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二十一世紀の歴史家が振り返ってみて、
「力と国権主義の時代であった十九世紀に較べて二十世紀は
道義と国際主義の時代だった」と、皮肉でなく言う可能性は
まずありません。

二つの大戦(二つですめばの話しですが)とイデオロギーを
異にする東西国家郡の対立、ナショナリズムが先進国だけでなく
全世界的に拡大したことを主題とする歴史観にならざる
をえないでしょう。

帝国主義時代を知るのに「憲憲録」というのは大変おもしろい
文書です。

序文にあるとおり、「総じて外交文書というのは含蓄を
主としてその真意を表に出さないから、ただ読んでも
砂を噛むようなものなので、これを絵画風に描写した」
ものなのです。

外交史を書いているわけでもないので詳しい引用を
するといとまもありませんが、日清戦争の発端も
日本による意図的なものがあったことを赤裸々に
記しています。

東学党の乱が起こって、清国が朝鮮の求めに応じて
出兵すると、日本もすぐ出兵します。

そして乱が収まってから帰ってくれといわれると、
清国が「十中八九まで同意せざるべし」という
日清合同の朝鮮内政改革案をもち出します。

朝鮮に宋主権をもっていると思っている清国が
当然これを断ると、待っていましたとばかりに
戦争にもちこみます。

その内政改革案についても、陸奥は実は
「多年の懸案(宋主権問題)」を動かすために
つくり上げたもので、自分はもともと朝鮮に
満足な改革ができるか疑わしいと思っているので
改革の内容も日本の利益を主眼とするものにとどめ
このために日本の利益を犠牲にする必要はなく、
「義侠心で十字軍を起こす」考えは毛頭ないが、
国民世論が韓国の改革という義侠の精神で
一致していることは、内政外交上すこぶる
好都合と認めた、と書いています。

2010年9月4日土曜日

日清戦争と軍事のバランス-陸奥宗光の情勢判断(1)

前回の記事ではドイツが一番悪くて、あとはその真似をしたように
書いていますが、実際はそんなことはありません。

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だいたいが三国干渉からして、端的にいえば
「そこは俺たちが取るところだから、お前はひっこんでろ」と
いうことです。

陸奥宗光が「憲憲書」で記している情勢判断によれば、
「ロシアの野望は遠大なのであるが、まだ準備が
整わないので当面は現状維持を浴している。

日清戦争では、清国が勝つと思い、したがって
おおきな現状変更はないと思っていたところが、
日本が勝って予想外に事態が進展しそうなので、
いそいで艦隊と陸兵を増派して、実力行使も
辞さない覚悟で交渉したきた」わけです。

この判断は後に公開された資料からみても
きわめて正確なものです。

一般的にいって、帝国主義時代の列強の考え方は
百パーセント悪意に解してまずまちがいありません。

悪意というよりは、それぞれの国の国益本位の
徹底した利己主義です。

これは帝国主義時代にかぎらず、歴史のすべての
時代において国家関係の基本をなすものですが、
時代とその場の状況によって、これが表に出ないことも
あるので、帝国主義時代の歴史は権力政治の
基本形として参考になるものです。

2010年9月2日木曜日

日清戦争と軍事のバランス-日清戦争の世界史的意義

しかし日清戦争はむしろ、極東の均衡に決定的な影響を
与えたいという意味で世界史的な事件でした。

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それまで清国は次々に領土を失いましたが、その経緯をみると、
必ずしも基本的な国力、軍事力の弱さからだとも言えず、
時の政府の無能、または辺境領土に対する関心の薄さ、
あるいは近代帝国主義の扱いの不馴れなどに起因するところ
大きく、現に取られた領土も、海島か辺境、あるいはビルマ、
安南のように名目的な宋主権をもっていた地域だけで、
中国本土の安全に直接関係あるようなところは
手放していません。

しかも北京条約以降は立ち直って、西太后の下に
「同治の中興」と言われるような内政の安定をみせ、
富力にまかせて海軍を拡張した中国は、隠然として
世界列強の一をなしていました。

その清国が弱小日本に負けて、満州族の本拠である
直隷の地まで割譲に同意し、もう見るべき軍事力も
財力もないとなったら、列強が見逃すはずありません。

はじめは清国の財政が日本はの賠償で窮乏したのに
目をつけての露、英、独、仏の借隷供与競争、
次には鉄道利権の争奪、それからロシアは旅順、
大連、英国は威海衛、九竜、フランスは広州湾と
相つぐ租借地の獲得、ついで中国本土における
各国の勢力範囲の設定と、わずか三、四年の
あいだに、中国は大帝国から半植民地に転落して、
列強による中国分割さえ公然と議論されるようになります。

日清戦争が中国没落の決定的要因となったことは、
もはや歴史の定説となっているので考証の要も
ないのですが、ロストフスキーの「東方経略史」を
引用してみますと、1881年のイリ条約のころは、
ドイツは「支那は人々も多く武器、軍需品も豊富」だという
「支那の実力に関する誇張された感覚で抑制されていた」
のだが、いまやその弱体を日本に曝露され、
ビスマルクの失脚で「舵取り」を失い、植民地獲得に
野心満々たるカイザーにとって「機会はあまりにも
誘惑的であり」、ドイツが曜州湾を取ると、
「他のヨーロッパ諸国も熱心にこれにならい、
歴史上最も恥ずべき一章をつくった」と
書いています。

2010年8月31日火曜日

日清戦争と軍事のバランス-崩れ行く伝統的均衡(2)

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、
新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が
危うくもロシアのいうとおりになるのをみると、占領中迫害された
宮廷はロシアの戦力を引き込んで日本に対抗させます。

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これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて
宮廷に乱入して妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという
無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、
この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、
政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。

そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという
不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、
朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めさせる
だけでなく、ロシアが財政問題と軍事教官を送ることも
認めます。

つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに
与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり
生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、
朝鮮の人は怨みがあり、日本人をまったく信用して
いなかったのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも
面縦腹背でどうにでもならなかったわけです。

日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、
それを今となっては同じことで、韓国の人の
対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を
汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が
韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、
それは日本が韓国の近代化を助けることだったと
思います。

韓国の歴史の中で唯一といえる親日はだった金玉均の
独立党も、その目的は、当時近代の旗手であった
日本と組んで近代化をしたいということでした。

現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、
遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に
置く正攻法なのでしょう。

さてこのように朝鮮半島の覇権だけでなく、
遼東半島も三国干渉で手放ししたと思うと、三年後には
ロシアが取ってしまって、日清戦争で日本が満韓で得たものは
全部ロシアに取られてしまうことになります。

2010年8月26日木曜日

日清戦争と軍事のバランス-崩れ行く伝統的均衡(1)

極東の伝統的な均衡が破壊される過程は、マジェランの
世界一周以来数多くの段階があります。

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とくに19世紀になってからは1840年のアヘン戦争、
58年の愛揮条約、60年の北京条約(沿海州割譲)など、
いわゆる西力東斬も急テンポになりますが、
どれか一つだけ決定的なものは、といわれると、
それは日清戦争になります。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の
日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、
それ自体だけであまり意味はない戦争でした。

もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を
獲得しますが、それは戦争の本来の目的では
ありません。

戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の
覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする
国際環境を確保することでした。

しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を
併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで
水を汲んでいるようでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党の
クーデターが成功して親日政権ができると
すぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終わり、
そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは
完全に清国が掌握します。

2010年8月25日水曜日

日本国であることの得失

秀吉の朝鮮出兵の例は、日本から向こうに攻めて行った例なので、
専守防衛のわが防衛戦略の参考とはならないので割愛しますが、
一つだけ指摘したいのは朝鮮出兵の場合でも、白村江の場合でも
共通していえることとして、日本側の戦闘能力過信と、戦略の
驚くべき粗雑さ、というよりも情報と戦略のまったくの欠如です。

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朝鮮の役は、小西行長が何とか秀吉をごまかして適当なところで
話しをつけようとして、それに乗じた謀略にひっかかるのですから、
秀吉ははじめから戦略情報については盲同然で、その点では気の毒と
いえますが、それはそれとして十五万にんの人数を準備しただけで、
あとはただどんどん進んで大明国を征服してしまおうという
以外には戦略がないのですから、無策ともなんとも言いようが
ありません。

天下統一の過程で、あれだけの戦略能力を発揮した秀吉が、
対外政策では一転して無策になる-このことの裏には、単に
秀吉の頭脳が老化したのではないか、ということ以上に、
もっと深い日本人の「外国なれのしない」特性があるのでしょう。

日本勢は現地ではその場に応じて、秀れた攻城野戦の能力を
発揮するのですが、戦争全体のやり方は、戦闘能力重視、
情報と戦略軽視の最たるものです。

当時明国のスパイが明の朝廷に送った報告に、日本人は勇猛果敢だが
何ごとによらず計画性がない、と書かれたのもやむをえないような
状況です。

白村江出兵の理由も歴史の資料によれば、「昔から助けを乞われれば
助けにいくのは当然である」というだけで、大唐帝国と連合軍を
相手にするにしては単純なものです。

戦場でも、状況を考えずに「わが方が先を争って攻めていけば、
敵はおのずから逃げるだろう」という戦術で唐軍にぶつかって
いきます。

それで負けるのは仕方がないとしても、その後もちっとも
国政情勢に即応した措置をとっていません。

敗戦後西国の守りを固めたのは当然ですが、新羅の戦争が起っても、
これを利用するチャンスですが、高句麗を滅ぼすが早いか新羅が
外交的先手を打って莫大なお土産をもって日本に入貢してみせると、
すっかり機嫌がよくなって、それっきり半島政策は放棄します。

結果としてみせれば、新羅と唐を戦わして日本は一息つき、
新羅、唐の両方と親密な関係を保ちえたのですから外交上
いちばんよい選択だったといえますが、どうしても
そこまでわかってやったとはとうてい考えられません。

というのは、その後新羅が唐羅戦争を勝ち抜き、大同江以南の
国境確定という玄宋皇帝の刺をもらってもう日本の機嫌を
とる必要もないので日本との関係を疎略にしだすと、
今後は日本側が怒って出兵の準備をします。

この出兵は総動員をするまでで沙汰やみとなりますが、
あのときに出兵していれば、唐と新羅の関係は蜜月とも
いえる状態でしたし、安緑の乱も終わっていますから、
また手痛い目に遇うばかりか唐との関係も台なしになることも
目にみえています。

力関係が我が方に有利なときは先方が下手に出るのでコロコロ喜んで、
出兵しない。

力関係が逆転して先方が高姿勢に転ずると今度は怒って攻めようとする、
これでは情勢判断も戦略もない、驚くべき単純思考です。

よくこれで千二百年間やってこられたと思います。

国際環境のきびしい国ではとても考えられないことです。

いまでも、日本周辺の客観的軍事バランス無関係に、むしと
国内事情を中心に日本の戦略を構築しようという発想が
しばしば出てくることの背後にはこういう歴史的伝統が
あるのでしょう。

一般的に日本の旧軍の欠点として、アングロ・サクソン風の
情報重視戦略でなく、プロイセン型の任務遂行型戦略を
採用したことが指摘されています。

つまり勝てそうかどうかの見極めをつけてから戦闘を行うのではなく、
与えられた兵力で与えられた任務をいかに遂行するかを考えると
いうことです。

ここでは詳しい例を挙げるいともありませんが、太平洋戦争では、
彼我の戦闘力、補給能力の差を無視して、幾万の有能な戦士が
任務遂行のために無謀な戦闘に従事して白骨と化しています。

しかし、こう見てくると、客観情勢の無視は、「清水の舞台から
飛び降りた」太平洋戦争の開始それ自体の考え方の中に
存在するのであって、単に明治以来のプロイセンの影響だけでなく、
おそらくは島国という恵まれた環境に育った日本民族の、
世界にも稀な経験の乏しさ、そこからくる初心さが、外部の
情報に対する無関心と大きな意味での戦略的思考の欠如を
生んできたといえましょう。

参照サイトリンク
戦後世界経済

2010年8月22日日曜日

韓民族の抵抗(8)

宋、契丹、明、清の時代に大陸中心部の勢力は一度も半島南部に
及んでいません。

元寇のときと状態が最も近いところまでいったのは
朝鮮戦争のときで、李承晩政府は、元寇のときの
高羅政府と同じように敵との力の差がありすぎては
かばかしい抵抗もできず、南部の海岸の西半分まで
北朝鮮軍に制圧されるが、その後は国連軍が釜山の
橋頭をよくもちこたえて反撃に転じました。

これだけからも、大陸に膨張主義的な大国-あるいは
外征を不徳とするような特殊な道徳をもたない
普通の大国-が出現して、朝鮮半島南部の抵抗が
崩壊して、大国の勢力が南部まで及んだ場合は、
極東の均衡の条件が崩れて日本に危機が迫るという、
考えてみればあたりまえすぎるようなことが、
日本の戦略的環境にとって真理として残ることに
帰結します。

後に述べるとおり、日露戦争の前に、巨大ロシアを
相手に日本が本当に戦争するかどうかの判断は、
一にかかって、そのままでは半島南部ままでは
半島南部までロシアが進行してくるかどうかの
見通しだけでした。

この地理的条件が、沖縄返還のときの
佐藤・ニクソン共同声明における
「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」
という思想にもつながって現在に至るわけです。

もちろん、半島南部を取られたからといって、
それが日本の破滅ということではなく、
そこから日本の正念場が始まるわけです。

現に大陸の力が圧倒的に強くて抗し難いというときは
半島南部のバッファーがなくなるという状態が
現出していますが、そういう場合は、白村江の後とか、
元寇のときのように、西日本は要塞化し、全国的に
動員態勢をとる必要が生じています。

自衛隊の前身の警察予備軍の発足も、
朝鮮戦争勃発二週間後のマッカッサーの
指令によるものです。

結局は今も昔も同じことで、半島南部の
海空軍基地が非友好的勢力の手に陥ちた場合を
考えると、日本が追加的に必要となる
防空能力、制海能力、揚陸阻止能力、ひいては日本の
防衛体制全般は、現在のものと質量共に
抜本的に異なるものとならざるを得ないでしょう。

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2010年8月19日木曜日

韓民族の抵抗(7)

さて、このような日本をとりまく戦略的均衡状態が
崩れるのは白村江後、近代までの千二百年のあいだで、
元寇前年の十年間と秀吉の朝鮮出兵の十年間だけです。

元寇においては日本をとりまく均衡の条件の
中で少なくとも二つが破れています。

一つは千二百年の歴史の中でこのときだけは
大国の自制がはたらいていなかったことで、
これはいうまでもありません。

もうひとつは朝鮮半島がバッファーの役割を
果たせなかったことです。

実は極東の歴史で、中国大陸の勢力が朝鮮半島南端にまで
及んだのは前にも後にもこのとき一度だけです。

白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、
対馬、壱岐、筑紫に防人と峰火を置き、
各地に城を築きます。

しかし半島南部の百済を滅ぼした唐軍は北進して
高句麗に向かい、これが滅びると、百済の故地の
処分問題などをめぐって唐と新羅の戦争が
始まって、新羅はちょうどいまの休戦ラインの
北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には
唐の勢力の侵攻を許しません。

すでに述べたとおり、唐帝国もはじめは普通の
膨張主義の帝国でしたから、もし唐が新羅を
征服したならば次は日本だったことは十分想定
されます。

現に白村江の後で唐が魏を討つために兵船の修理を
したという記録もあるそうです。

唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の
幸運だったといえるでしょう。

2010年8月18日水曜日

韓民族の抵抗(6)

歴史の表面にあらわれない場面でも、
韓民族が日本の潜在的危機を救った
ケースはあります。

もし高句麗が崩壊して朝鮮半島全土を
隋が制圧していたらどうなっていたでしょうか。

聖徳太子が
「日の出る処天使、日没する処の天使に書を致す。無無きや」
といっていたのに対し(王芸生は、これを日本が中国に
逆らって「抗礼の挙に出たはじめ」と書いています)

「蛮族の書なきものあり」
と怒った怒った隋に対する戦勝の後にあえて臣礼を
とって入貢して平和を保ったほどのきびしい東アジアの
戦略環境で、日本のナイーブさは危険極まりないものでした。

契丹に対する高麗の抵抗にも同じことがいえます。

契丹は豪古にも劣らない膨張主義国家ですから、
朝鮮半島が完全に征服されていれば元寇と
同じことになっていた可能性もあります。

刀伊の入寇のあいだにどこまで連繋があるのかは
わかりませんが、同じ年に九州に侵入していることからも、

そのころ東北アジアの民族活動が活発化していて
情勢によっては危機をはらむ状況にあり、
それが高麗の抵抗で救われたということもいえます。

【精神分析入門】

2010年8月17日火曜日

韓民族の抵抗(5)

他方、バックス・シニカの一部分にならざるを得ない
地理的環境にある国としては、対外征服などとても
考えられない国際政治上の条件下にある。

高句麗が隋軍を撃滅して得た代償は
隋に入貢を許されることでしたし、
新羅が唐羅戦争を勝ち抜いた代償も
同じです。

元の大軍を追い返したベトナムの代償も
同じことでした。

勝って中国に進撃しても四百余州を制するわけには
いかず、いずれは息切れして負けるのですから、
早く和平を結んで安定した国家関係を
作ることが大事。

負ければ民族の滅亡、勝っても宋主国に対する
藩属関係というきびしい条件ですから、
外への発展などとうてい考えられません。

フィンランドの救国の英雄マンネルハイム元帥が、
ソ蓮戦争末期に
「休戦は至上命令だ。
フィンランド国軍が崩壊したら休戦はありえない」
と言ったのも同じことです。

負ければ自由なフィンランドは滅亡、英雄的な
抵抗でやっと勝ちえたものが、いわゆる
フィンランドダイゼーションのような
かたちが生まれるのですから。

というわけで、対外侵略の意図も能力もなく、
他面北からの脅威には敢然と抵抗する
意思のある国が大陸本土と日本とのあいだに
介在している-これほど日本の安全にとって
ありがたい条件はないといえましょう。

2010年8月15日日曜日

韓民族の抵抗(4)

ところが、防戦となるとこれまた驚くべき能力を発揮します。

さきの高麗の乙支文徳が隋軍を破った勝利と並び
称されるのは1018年がら19年にかけての契丹軍の
十万の入寇を迎え撃ち、牛の皮で川をせき止めて
一挙に切って落とすという奇策を用いて、生還者僅かに
数千人といわれる勝利である。

いずれも、日本の歴史でいえば、日本海海戦に比すべき
意義のある大勝利として韓民族の心に深く残っている。

また唐軍を迎えての七年間の唐羅戦争を戦い抜いて
ついに唐に勝ちを許さなかった新羅の勇戦ぶりも
また立派なものだ。

どうしてそういうことなのか、やはり東夷諸国の中では
早くから民族国家としての体をなし、文化の程度も
高かったから侵入軍に対して組織的な抵抗ができたのも
当然だが、韓民族の特性として三・一宣言を起草した
大学者催南善の論文等でよくいわれていることだが、
民族の純粋性に対する信仰、裏からいえば他民族に対する
排他的には独特のものがある。

一つは言語のちがいもある。

漢民族の南方の種族はタイに至るまで、漢字音のある
同系統の言語なので中国に同化されやすいのだが、
韓国語は日本語と同じようなのっぺらぼうな発音の
言葉でとても中国語になじまない。

漢民族としてもこういう種族は漢北におい払うか、
高句麗の末路のように住民を中国各地に強制移住させて
民族として抹殺するしかなく、そうでなければ
朝貢宗関係が一番よいかたちかもしれない。

2010年8月14日土曜日

韓民族の抵抗(3)

韓国族というのはいろいろと不思議な民族だ。

まずは驚くべき内向的な民族で、
歴史上膨張政策をとったことが一度もない。

新羅は建国以来5世紀までに二十数回も委人に
攻められたと記しているが、新羅が日本攻撃を
企図した記録は皆無だ。

また元寇が失敗して以来逆に委寇は著しく、
高麗朝滅亡の一因となったといわれるくらいですが、
これに対しても防戦一方で、対馬攻撃が実施されたのは
1419年ただ一回のようだ。

国家主義者朴が「わが五千年の歴史は一言でいって沈黙の
歴史である。
いつの時代に辺境を越えて他を支配したことがあろうか・・・
こんな歴史は燃やしてしまえ」
と嘆いているのにもよくあらわれている。

2010年7月26日月曜日

韓民族の抵抗(2)

ついでに唐の太宗の高麗成征伐について
十八史略は、「この外征では、十城を陥し、
七万の人口を唐に移し、三つの大合戦で
四万以上の首を切った。
しかし味方は三千人の兵を失い、
戦馬は十に七八は死に、それでも
目的は達せられなかった。
太宗は深く後悔して、もし魏徴が生きて
いたらこのようなことはさせなかっただろう」
といって、先にうとんじられた唐の
名臣魏徴の名誉回復をする。

唐の太宗といえば、中国の歴史の皇帝の中でも
最高の歴史的評価を与えられている名君だ。

十八史略も、その業績と人となりに
賛辞をかさねている。

ちょうど日本と大陸との本格的な対外関係が
始まるころから、外征を不徳とする
考え方が中国に確立する-これもまた
日本にとってはきわめて運のよい
話だ。

韓民族の抵抗(1)

外征を不徳とする中国の思想が確立するのは、
実は、日本が統一国家として歴史に登場する
隋唐のころからなのだが、この思想が確立する
主たる原因は韓民族の抵抗にあったからといっても
言いすぎではない。

十八史略のそのころの記述を読むと
その間の事情がよくわかる。

隋の楊帝については、
「大業七年、帝みずから将となって天下の兵を
徴して高麗を撃った。・・・人夫が数十万で
昼夜絶えず米を廻し、死人が枕を並べるようになり、
民衆は困窮して、ここではじめて郡盗をなすようになった」
とあり、あとは、十八史略独得のテンポで、急坂を
転がり落ちるように隋王朝の没落を描いている。

この時の高句麗の戦いぶりは見事なものだ。

将軍乙支文徳は戦っては偽って逃げ、
隋軍を平壌城のそばまで深く誘いこみ、
平壌城が堅固で攻めあぐねた隋軍が
引き上げて清川江を半ば渡ったところを
痛撃して、三十万五千の遠征軍のうち、
帰ったのは僅かに二千七百人という
大勝利をおさめる。

2010年7月10日土曜日

バックス・シニカ(5)

もともと漢民族は黄河中流に最初に本拠を構えて、
そこから東西南北の異民族を征服吸収して、
自らの版図に加えて膨張してきた。

古代シナの膨張が一つの絶対期を迎えるのは
漢帝国の時代で、漢の武将は漠北を裁ち、
嶺南を平定して、ほぼ現在の漢民族の
住んでいる地域を征服した。

朝鮮半島についても、北半分を征服して、
朝貢国としないで、郡県を置いて直接支配した。

歴史の前例というのはおそろおしいもので、
唐の太宗の朝鮮介入も、漢の郡県復活の
ためというし、明治15年の壬午の変後、
日本攻略を主張するが、同時に漢の例にならって、
朝鮮の国を廃して郡県とすることを説いた。

つまり漢の時代の中国は歴史上どこでも
ある征服王朝の一つで、朝鮮半島南部や
日本が征服されなかったのは、
地理的にあまりにも遠かったというだけの
理由でしょう。

2010年7月9日金曜日

バックス・シニカ(4)

国際平和はバランス・オブ・パワーで維持される
というのは近代の国際政治思想の一つの固定観念
ですが、私は、これが現在の国際情勢に
あてはまるかどうか従前から疑問をもっている。


たしかに、バランス・オブ・パワーで平和が
維持された時期というのはあるのだが、
それは19世紀のヨーロッパ、ルネッサンスの
イタリア、春秋戦国の中国のように
同じような力の国がいくつかあって、
その間の合従連衡が可能なときだけで、
それでも、そのつど数十年の
平和が維持されただけだ。


本当に平和は、バックス・ロマーナのように
圧倒的な力の差があるときだけ存在するようで、
戦後のバックス・アメリカーナも同じことだったと
思います。


ところで、この大国の自制は、漢民族の歴史に
おいてつねにそうであったわけではない。

2010年7月8日木曜日

バックス・シニカ(3)

もっとも、こんなことをいって、まわりの領土を
どんどん取られてしまった清国はバックス・シニカの
最後の段階ではこれに気付く。

1885年アフガニスタンをめぐる英露の衝突の
後に英国はウラジオストックのロシア艦隊を
封じ込めようとして、朝鮮半島南部の
租借を申し込む。

朝鮮政府から相談を受け「その島は荒島と聞く。
貴国は惜しむに足らないと思うかもしれないが、
香港も昔は漁師の小屋がいくつもあるか
だけだったが、いまや毅然として重鎮となり
南海の咽喉を成している」と述べ、
うっかり貸したりするとロシアも日本も
同じようなことを言ってくるぞと忠告して
断らせる。

その判断はきわめて正しいのだが、
それならもっと早く中国自身が気付く
べきだっただろう。

ともあれ大国が圧倒的な力をもち、
かつ、自制することを知っている
-それならば安定した平和が維持されることは
自明の理だ。

2010年7月7日水曜日

バックス・シニカ(2)

第二は、中国特有の宗主藩属関係で、これは一言でいうほど
簡単なことではないので深入りはしないが、
一般的にいって中国の脅威とならないかぎりあえて
征服しよとしないという傾向があるといえる。


日本の場合はごく短期間を除いては宗主権が及んだと
いえる時期はないが、中国が外征を好まない傾向を
もつ恩恵は受けている。


「小国の区々たる貢を争い、虚名を求めて遠征を
事とする」というのは、日本が明治の初め
琉球王に対清朝貢を禁止し、琉球王は
泣いて清朝の援け求め、駐日清国公使も
「琉球を取らせれば次は日本は朝鮮を取りにくる。
いまは日本が西南戦争のあとで疲弊しているから、
清国が干渉すれば成功する」


このときでも日清の話し合いがつかず清国が
実力を使えば日清間に兵が動いたわけだが、
この清国の自制で琉球問題は日本が既成事実を
つくったままで収まる。

これが
バックス・シニカの構造の一つの例といえる。

2010年7月6日火曜日

バックス・シニカ(1)

さて、近代まで日本の周辺にこれだけの安定をもたらしたのは、
単に地理的環境だけではなく、中華帝国を中心とする
東アジアの国際秩序であったといえる。


バックス・シニカという言葉
(シナ・の優越で平和が保たれている状態)は
あまり使われないが、これが有効にはたらいて
日本や朝鮮半島の平和が維持された期間は、
バックス・ロマーやバックス・ブリタニカが
有効だった期間よりはるかに長く、
かつ安定したものだったといえる。


バックス・シニカの第一の条件は中国の圧倒的優越だ。


国土人口の大きさ、歴史の長さからくる
文化水準、政治力、経済力、軍事力は
周辺諸国の比肩を許さない。

中国の優越は議論を許さないところであり、
これを知らなかっただけで、漢に併合された
夜郎国のように、後世まで「夜郎自大」といわれて
無知と思い上がりの手本として歴史に名を
留めることになる。

2010年7月5日月曜日

二つの民族の歴史経緯の差(5)

幕末に筒井肥前守などが対露政策を論ずるように
命ぜられて書いた文書には、ロシアが樺太まで
入ってきたような自体について
「かかる例は御国にはこれ無く候。
余の儀なく唐土の例を以って勘弁仕り候ところ」
として、漢も唐も強くなってからこれを
征服したという例を挙げ、ここは、日本の力がつくまでは
和親しかないと論じている。


この程度の歴史論でも
「わが皇国は外国の侮りを受けていない」
云々などという日本中心の天動説の攘夷論に
まさること万々だ。


我々は戦略論を考えようとしているのだが、
戦略論とは、すなわち歴史の研究、解釈であると
断言しても、かなり正統派の考え方として通用する。

「アレキサンダーからフレデリックに至る偉大な指導者の
作戦を何度も繰り返し読め」といったのはナポレオンだった。

孫子やクラウゼビッツは歴史的体験を抽象化して
まとめ上げているが、クラウゼビッツとなると、
もう、ドイツ観念論で整理しすぎて、種々の点について、
後世の戦略家達から、「そうも割り切れないのではないか?」
という疑念が表明されている。

2010年7月4日日曜日

二つの民族の歴史経緯の差(5)

ニューヨークのジャパン・ソーサイティーの
75周年記念のシンポジウムで、米国の学者が
防衛問題を論じて「米国はそれほどブアルネラブルでは
ないのにインセキュリティーであり、日本は
ブアルネラブルなのにインセキュリティーがない。
これはどうしたことだ」と言っていたが、
まさに核心をついた発言と思った。


はじめに紹介した日本のインテリの議論も、
ソ連の脅威の客観的な評価を日本の
できることに合わせようという意味では
無理なのだが「日本人は米国と同じようには
ソ連の脅威を感じていない」
という感覚的な発言
-こういう感覚的な発言で開き直れるものか
どうかの問題は別にして-
としては正確だともいえる。

日本民族というのは世界でもよくよく経験不足の
国民だ。

個人でも国家も同じことで、経験によって賢く
なるのだが、中国人どころか韓国人まで
「日本人は若い」と見下している事実は
自戒すべきだ。

といっても経験がないものは仕方がないので、
歴史から学ぶほかはない。

ツキというものはいつまで続くか保障はないし、
日本が自分の歴史で経験したことだけが
将来起きるとはかぎらないから、古今東西の
歴史を参考にする要がある。

2010年7月3日土曜日

二つの民族の歴史経緯の差(4)

ツキに自信のある個人とそうでない人もあるように、
国民性でもちがいはある。


韓国の高度成長は70年代初めから始まって、
73年には10月までの実績でGNPが前年度比
実質20%の増、インフレは3%以下という
驚異的な数字だったが、そこへ10月の
中東戦争と石油ショックがきた。


そのとき韓国の経済官僚が天を仰いで、
「韓国はよくよく天に見放された民族だ。
高度成長が始まったとたんにもうこれだ」
と言ったのを印象深く覚えている。


いつかは神風が吹くと思っている民族とは
大きな違いです。

いまでも日本人が国際環境のきびしさを
言葉ではわかっていても、実感としては
感じられず「どうにかなるんじゃない?」と
思っている根底にはこの楽観主義がある。

2010年7月2日金曜日

二つの民族の歴史経緯の差(3)

防衛論争の過程で私はいろいろな方から書簡をいただいたが、
それを見てもソ連の脅威に一番深い危惧を抱くのは、
敗戦時満州でソ連軍の占領を経験した人々だ。

しかし日本人の圧倒的多数はアメリカの占領しか
経験していないので、どうしても降伏とか占領に
対するイメージが甘くなる

「経験から学ぶのは愚か者のすることで、余は歴史から学ぶ」
と言ったのはビスマルクだが歴史どころか、同時代の
同国民の経験から学ぶことさえ難しいのが現実だ。

元寇のときも壱岐・対馬の人々は捉えられ、
女性が掌に穴をあけられて船ばたに吊るされたという
記録も残り「むごい」という言葉は「豪古い」からきたと
いうが、それも満州の経験と同じように、
全国民的経験とはならなかった。

もっとも朝鮮戦争で米韓軍が釜山の橋頭保に
追い詰められても、東京の人は何も感じなかったのに、
北九州や山口県では危機感が高かったそうで、
これは元寇の記憶だという人もいる。

戦争の記憶というものは何世紀も残るものだから
本当にそうかもしれない。

また、侵攻軍が台風で全滅するということは
確率からいってそう大きいものではないはずだが、
歴史上たった二度の本格的侵攻で二度とも
そうなったということになると、日本人が
ツキに自信をもつのも無理のないことだ。

2010年7月1日木曜日

二つの民族の歴史経緯の差(2)

高麗朝の政府は江華島に立て篭もり、舟戦を知らない
豪古勢は30年も攻めあぐねるが、江華島以外の朝鮮半島は
豪古兵の暴行略奪の対象となり、この30年間の高麗の
人民の惨苦は言語に絶するものがあった。

1252年の来寇のときの記録を見るだけでも
「豪古の虜にする所、男女無慮二十万六千余人、
射殺せらしめし者あえて計うべからず。
経る所の州郡皆猥儘となる」とある。

ある韓国の人は、このときの例をひいて、
「日本人は何のかのといってもお国の世話になった記憶があるが
韓国人にはそれがない。
このときも人民は見捨てられていた。
したがって国民の国家観もおのずから異なってくる。
それぞれの国民は歴史も、伝統も、
したがって国民性も異なる。
異なるとということと善悪は別の問題なのだが、
日本人はこれを混同する悪い癖がある」
と言っていた。

この朝鮮半島の人々が受けた惨苦に較べて、
日本が一度も異民族の支配を受けたことがなかったという
事実は、国際政治のきびしさに対する
日本人の考え方の甘さや楽天主義の元になっている。

2010年6月30日水曜日

二つの民族の歴史経緯の差(1)

日本が海に囲まれているとか、台風が多いとかいう
地理的特性はいうまでもないことだが、
日本の地理的特性の意味を考えるには、
近似した民族であり、歴史上ある時期に
たまたま朝鮮海峡の南北に分かれて
住んだだけだといえる、日韓両民族の
歴史的経験の差を考えることが有益と思う。

そのためには、日本に対する唯一の
本格的侵攻の歴史である元寇のときを
考えるのが手っ取り早い。

豪古高麗侵入はまったく理不尽なもので、
両国のあいだにあった契丹を滅ぼすときは
同盟関係だったのだが、豪古は契丹を滅ぼすと
高麗に服従と朝貢を命じ、そのときの使者の
態度などは高麗王を王とも思わずひどい
侮辱的なものだった。

高麗はそれでも我慢して、毎年莫大な
貢物を献じて平和を保つが、それは豪古が
西域と金を攻めているあいだだけのことで、
それがすむと、豪古は6年前の事件を盾にとって
侵入を開始し、第殺戮を行う。

北条時宗が豪古の使を斬ったのも
国際礼儀を無視した乱暴のようにみえるが、
その40年前の高麗における豪古の
やり方が正確に伝わっていたとしたならば、
服従して動物のように扱われ、戦争をするしか
なかったのだから、使者を斬って
ポイント・オブ・ノーリターンに自らを
追い込んで抵抗の国論を統一するためにも
無理のない選択だった。

2010年6月29日火曜日

例外的安定をうみだしたものは

近代前の日本をめぐる戦略的環境は、
世界史上稀に見る安定性を示している。

もちろん周辺のアジア情勢は幾多の
変転を重ねている。

中国の歴史は宋が滅びるまでがいわゆる
十八史、その後、元明清をへて近代に
至るまで王朝の交代をくり返し、
朝鮮半島も、唐朝以降は中国王朝交代の
影響をモロに受けて、古代の三国から
新羅、高麗、李朝と交代している。

その間、日本は、有史前にあったらしい
天孫民族の日本征服以降は外敵による
日本の征服はただの一度もなく、日本の
王朝は一度も交代していない。

この事実が戦前の史観では、万邦無比と
いうことで、日本の超国家主義の根拠の
一つとなったことはまだ記憶に新しいところだ。

近代前とは、日本にとっては二つの大きな
戦略的環境の変化の起る前を意味している。

一つは中国が極東における支配的な力を
失ったことで、もう一つはいわゆる西力東漸の結果、
それまでは戦略的に真空地帯であった太平洋と
シベリアが、欧米の軍事的な力で
埋められるようになったことだ。

そして、この近代前の環境における
例外的な日本の平和を支えたものは、
もちろん日本の地理的特性だが、それに加えて
中華帝国というものの独特な性格と
その間に介在する朝鮮半島住民の
特殊な民族性が果たした役割がある。

2010年6月28日月曜日

日本の国家戦略を論じるにあたって(5)

ここで一つのの試みとして、国家戦略論の
いちばん基礎的な事実関係である日本の
歴史と地理からはじめたいと思う。

そして、最終的には現在の日本をとりまく
戦略的環境ができるかぎり客観的に
解明されることによって、日本にとって
何が必要かがおのずからわかってくることを
期待する。

これは私の持論である情報重視からいっても
正攻法である。

「問題が全部わかれば問題は半ば解決したも
同然だ」というのは真理である。

まず客観情勢を綿密に分析評価していけば、
その対策はおのずから出てくるものだ。

日本国家戦略という大きな問題を考えるに
際しては、日本の歴史と地理という最も
基本的なものを知り尽くしてから論じるのは、
むしろあたりまえの方法論といえる。

その意味で、本書では日本の国家問題には深く
立ち入る余裕はないでしょう。

戦後日本の平和主義、憲法、非核三原則、
安保条約等をめぐる過去三十年間の
国会等における議論の蓄積は大きなものが
あり、私自身もその議論をことごとく
論じるように訓練されてきた。

しかし、本論の目的は、日本の国内事情を
中心とする天動説的立場から日本の
防衛策を論じることではない。

日本の政治は最終的にはその時点における
国内事情が許す範囲内で防衛政策を決定する
のだが、その決定に際してまず参考とすべき
客観的諸条件の判断において、国内事情から
くるこだわりや希望的観測は一切排除して、
できるかぎり雲りのない眼でみることを
期するのが本論の目的。

いずれにしても戦略論というものは日本では
まだまだ未開拓の分野で、糸口を見つけるのさえも
難しいような状況だから、あえて蛮勇をふるって
政府の立場を離れて個人の意見を述べさせて
いただくわけだから、私が独りで考えた意見の
中に、どこか未熟なものがあるおそれのあることは
自分でも充分認識している。

そこからもっと本格的な戦略論が生まれて
くることを期待している。

2010年6月27日日曜日

日本の国家戦略を論じるにあたって(4)

天秤の妥当な点はここだと本人が判断していながら、
それよりも左のほうにぶら下がって、
国全体のバランスをとろうという考えです。

妥当な点にいる人からは
「お前の立場は非論理的だ」
と指摘される、インテリとしては堪え難いはずの
精神的屈辱にあえて堪えながら国家全体の
バランスをとる役目を果たす

そう考えればノーブルな態度といえるかもしれないが、
そういうことを言っていたのでは、いつまでたっても
論理の整合性を軸とする国民の合意ができないではないか。

やはり、皆が本当に正しいと信じることだけを
発言することによって、おのずから客観的妥当性のある
国民的合意もでき、その中にこそ真のデモクラシーによる
歯止めもできるのでしょう。

「本当はこうなのだが、それを言うと世論が突っ走ってしまう」
あるいは「世論がソ連をおそれてフィンランド化する」、
だから「この程度と言っておこう」という「バランス感覚」は
民衆の判断力に対する不信であって、
デモクラシーの原則に反します。

故椎名悦三郎氏が口癖に言っておられた
「それ民は賢にして愚、愚にして賢」であって、
大衆の良識というものは無視できないものがある。

「自分はインテリだから大丈夫だが、
他の人はすぐ右傾する」というエリート意識で
独善的に情報操作すると、かえって大局を
あやまるおそれがある。

日本という風土において、客観的な事実と論理の
整合性を基本とした議論の上に立ったコンサンセスを
つくり上げていくことがいかに困難か
絶望的な感じします。

2010年6月26日土曜日

日本の国家戦略を論じるにあたって(3)

国際情勢のきびしさは認めつつも、
種々の国内制約のために軍備の不十分を藪く。
これは、古今東西変わりない現象です。

日本だけ、いまやっていることにつじつまを
合わせて、これでいいんだ、とすましていても、
それはただ作文したというだけのことである。

現に日本の首脳会談等では、情勢のきびしさは
認めながら、日本は米国の期待するほどのことは
できないと説明していますが、その理由は、
国民のコンセンサスの必要であり、財務事情であって、
こういう正直な態度の方が、長い眼で見て国家間の
信頼関係によいのではないかと思う。

もう一つは「自分の見通しでは日本の防衛予算は
いずれGNPの1.5か2%ぐらいにはなり、
その結果日本の防衛体制もよいかたちになり、
米国との協力もうまくいくと思う」

2010年6月25日金曜日

日本の国家戦力を論じるにあたって(2)

つい最近でも日本人にとって論理性とは何か、
ということを再び考えさせらた例が2つあった。

日本人の防衛感覚もずいぶん変わってきて、
もう60年安保のような対立は過去のものとなった
ようだが、一つは「米国が期待するほど防衛努力を
日本ができないのならば、その前提となる
極東の軍事情勢判断で米国と一致すべきではない」
という議論で、これにはいささか驚いた。

「それはつまりソ連の潜在的脅威の程度を、
日本がいまのところ整備可能な防衛力に
見合う程度だと判断することですか?」と
反問してみたところが、

二、三のやりとりのあとで、
まさにそう考えておられるのだとわかって
二度びっくりした。

そうしないと「論理の整合性がなくなる」という。

これは「論理の整合性」というべきものではない。

これでは、現在の国家情勢の下ではこのあたりが
妥当なところだろうという、客観性のある日本の
防衛戦略はけっしてできてこない。

2010年6月24日木曜日

日本の国家戦略を論じるにあたって(1)

日本の国家戦略を論じるにあたって、
私は、今度こそはなんとかしてポレミックス
(ああだこうだといういい合い)だけで
終わってしまいたくない気持ちだ。

戦後あれだけの防衛論争だありながら、
賛否論と反対論のあいだの勢力の
消長はあっても、その立場はちっとも
収拾してこない。

この理由を私は年来不思議に思って、
あるいは日本のデモクラシーになにか
欠陥があるのではないかとさえ思ったことも
あるが、社会学や文化人類学の先生方の
教えを乞うているうちに、日本人が
論理的なものの考え方に弱いからではないかと
いうことがわかってきた。

日本人というのは、過去の経緯で
出来上がっているものを工夫して
改善していく点ではおそらく
世界一といえるくらいの能力を
発揮するのだが、肌で感じないとなかなか
理解しない国民なので、何もないところに
論理的な整合性のある構築物を作り上げる
ということになると、はたと当惑して
しまうところがある。

まして、それを、コンサンサスの上に
築き上げていくこととなるとまずは
不可能事ということになる。

日本の防衛体制も、それを支える理念も、
敗戦でそれまでのことが全部御破算になって
ゼロから出発した。

また、旧軍との関係はまったく断ち切ると
いうことで、意図的にゼロから出発した面もある。

しかし戦争というと、いつ起こるのか、
成り行きいかんでは何十年も起こらないで
すむかもしれないものについて考えるのだから、
相当な、抽象的論理的思考が必要になる。

ということで、「何を守るのか」「何から守るのか」
というところまで遡って議論しなければ
ならなくなる。

それ自体は悪いことではないが、
それがギリシャ哲学のように対話によって
理論的なコンセンサスができていくのと
反対に、それぞれの政治的立場が
先に決まっていて、それを正当化するための
「論理」の構造が自分で増殖して、船の底の
カキがらのように重くなってくだけだという
傾向があった。