秀吉の朝鮮出兵の例は、日本から向こうに攻めて行った例なので、
専守防衛のわが防衛戦略の参考とはならないので割愛しますが、
一つだけ指摘したいのは朝鮮出兵の場合でも、白村江の場合でも
共通していえることとして、日本側の戦闘能力過信と、戦略の
驚くべき粗雑さ、というよりも情報と戦略のまったくの欠如です。
ランキング応援クリックをお願いいたします。

朝鮮の役は、小西行長が何とか秀吉をごまかして適当なところで
話しをつけようとして、それに乗じた謀略にひっかかるのですから、
秀吉ははじめから戦略情報については盲同然で、その点では気の毒と
いえますが、それはそれとして十五万にんの人数を準備しただけで、
あとはただどんどん進んで大明国を征服してしまおうという
以外には戦略がないのですから、無策ともなんとも言いようが
ありません。
天下統一の過程で、あれだけの戦略能力を発揮した秀吉が、
対外政策では一転して無策になる-このことの裏には、単に
秀吉の頭脳が老化したのではないか、ということ以上に、
もっと深い日本人の「外国なれのしない」特性があるのでしょう。
日本勢は現地ではその場に応じて、秀れた攻城野戦の能力を
発揮するのですが、戦争全体のやり方は、戦闘能力重視、
情報と戦略軽視の最たるものです。
当時明国のスパイが明の朝廷に送った報告に、日本人は勇猛果敢だが
何ごとによらず計画性がない、と書かれたのもやむをえないような
状況です。
白村江出兵の理由も歴史の資料によれば、「昔から助けを乞われれば
助けにいくのは当然である」というだけで、大唐帝国と連合軍を
相手にするにしては単純なものです。
戦場でも、状況を考えずに「わが方が先を争って攻めていけば、
敵はおのずから逃げるだろう」という戦術で唐軍にぶつかって
いきます。
それで負けるのは仕方がないとしても、その後もちっとも
国政情勢に即応した措置をとっていません。
敗戦後西国の守りを固めたのは当然ですが、新羅の戦争が起っても、
これを利用するチャンスですが、高句麗を滅ぼすが早いか新羅が
外交的先手を打って莫大なお土産をもって日本に入貢してみせると、
すっかり機嫌がよくなって、それっきり半島政策は放棄します。
結果としてみせれば、新羅と唐を戦わして日本は一息つき、
新羅、唐の両方と親密な関係を保ちえたのですから外交上
いちばんよい選択だったといえますが、どうしても
そこまでわかってやったとはとうてい考えられません。
というのは、その後新羅が唐羅戦争を勝ち抜き、大同江以南の
国境確定という玄宋皇帝の刺をもらってもう日本の機嫌を
とる必要もないので日本との関係を疎略にしだすと、
今後は日本側が怒って出兵の準備をします。
この出兵は総動員をするまでで沙汰やみとなりますが、
あのときに出兵していれば、唐と新羅の関係は蜜月とも
いえる状態でしたし、安緑の乱も終わっていますから、
また手痛い目に遇うばかりか唐との関係も台なしになることも
目にみえています。
力関係が我が方に有利なときは先方が下手に出るのでコロコロ喜んで、
出兵しない。
力関係が逆転して先方が高姿勢に転ずると今度は怒って攻めようとする、
これでは情勢判断も戦略もない、驚くべき単純思考です。
よくこれで千二百年間やってこられたと思います。
国際環境のきびしい国ではとても考えられないことです。
いまでも、日本周辺の客観的軍事バランス無関係に、むしと
国内事情を中心に日本の戦略を構築しようという発想が
しばしば出てくることの背後にはこういう歴史的伝統が
あるのでしょう。
一般的に日本の旧軍の欠点として、アングロ・サクソン風の
情報重視戦略でなく、プロイセン型の任務遂行型戦略を
採用したことが指摘されています。
つまり勝てそうかどうかの見極めをつけてから戦闘を行うのではなく、
与えられた兵力で与えられた任務をいかに遂行するかを考えると
いうことです。
ここでは詳しい例を挙げるいともありませんが、太平洋戦争では、
彼我の戦闘力、補給能力の差を無視して、幾万の有能な戦士が
任務遂行のために無謀な戦闘に従事して白骨と化しています。
しかし、こう見てくると、客観情勢の無視は、「清水の舞台から
飛び降りた」太平洋戦争の開始それ自体の考え方の中に
存在するのであって、単に明治以来のプロイセンの影響だけでなく、
おそらくは島国という恵まれた環境に育った日本民族の、
世界にも稀な経験の乏しさ、そこからくる初心さが、外部の
情報に対する無関心と大きな意味での戦略的思考の欠如を
生んできたといえましょう。
参照サイトリンク
戦後世界経済